大きく分けて、尾張地方、西三河地方、東三河地方の3地域より構成されている。面積比はほぼ1:1:1、人口比はほぼ7:2:1。
特に尾張と西三河の2地域は、江戸幕府の開祖である徳川家康を初めとして、多くの戦国武将を出した地域としても有名。西三河には、トヨタ自動車などの自動車産業が集積立地し、尾張には、三菱重工業、川崎重工業、富士重工業、IHIエアロスペース、東レなどの航空宇宙産業関連主要メーカーの生産拠点が集中している。
郡名が県名にされた県の一つで、当時の県庁所在地であった愛知郡名古屋に由来している。
『万葉集』の「あゆち」に由来し、それが律令制下で愛知郡という郡名に採用されたといわれている。なお、県公文書館発行のパンフレット「愛知県誕生のなぞをさぐる」では、あゆち(年魚市)潟説・あゆちの水(湧水)説・あゆち村説の三説をあげている。
気候
太平洋側気候を呈しており、夏は高温多湿で非常に蒸し暑い。冬は乾燥した晴天の日が多く、伊吹おろしという乾燥した冷たい風が吹き、体感温度が北日本並みに一気に低下する日もある。北西の季節風の影響があるため強い冬型の気圧配置になると雪雲が、岐阜県の関ヶ原付近から流入し愛知県西部などで局地的な大雪に見舞われることがある。
歴史
愛知県は、令制国では尾張国と三河国に当たる。愛知県は、支配者氏族と関係している地域である。源頼朝が生まれた地域(名古屋市熱田区)との説もあり、室町幕府を開いた足利氏は西三河地方に細川氏・一色氏・吉良氏・今川氏など一族が多かった。戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という3人の天下人を輩出し、中央政局に大きな影響を及ぼした。江戸大名はこの三人の配下から出た者が多く、徳川一族や譜代大名(井伊氏などごく一部の他国出身者もいる)などの三河出身者のほか、前田家、浅野家、池田家、山内家、蜂須賀家などの尾張出身者が各地で大藩を幕末まで支配した。さながら近世日本は愛知出身者に征服された国と言える。大名家だけでなく家臣団や一部庶民も封地へ移り住んでおり、たとえば江戸の誕生と形成に与えた三河の影響はしばしば指摘されるところである。
江戸時代以降、尾張は徳川御三家のひとつ尾張徳川家の領域となり、三河は譜代大名・旗本領・寺社領・天領と分割支配された。
明治以降、三河国内の旗本・寺社・幕府領を総括する三河裁判所が設置され、のち三河県とされ、さらに伊那県に編入され、伊那県足助庁が所轄した。その後、廃藩置県に伴い、三河に10県、尾張に2県が設置され、三河10県および伊那県足助庁および尾張国知多郡を統合して、額田県を設置。犬山県(尾張徳川家御附家老の成瀬氏が維新直前に独立し立藩)を名古屋県が併合して設置された名古屋県は改名して愛知県になった。そして、明治5年11月27日(1872年12月)額田県を愛知県に編入(太政官布告372号)して、ほぼ現在の県域が確定する。名古屋県令であった井関盛艮が権令(県令)となった。県の下には大区小区制により、15大区15小区がおかれ、翌年3月には、第一大区は区長1人、権区長2人、小区に戸長1人、副戸長2人、各町に副戸長2人ずつを置くことになった。これらは藩の統治とは違う中央集権国家の末端統治機構であった。明治4年11月(1872年1月)の県治条例で、県令は管内の立法・行政・司法を専決する権限が与えられ、「天皇の牧民官」と称された。 |