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熊本県
熊本県(くまもとけん)は、日本の九州地方の中央に位置する都道府県のひとつ。人口約181万人、面積約7,400km2 、有明海、不知火海、東シナ海に面している。県庁所在地は熊本市。全国有数の農業県であり、また車エビなどの養殖業が盛ん。世界最大級のカルデラを持つ阿蘇山が知られる。方言は熊本弁、八代弁が話される。

熊本県
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地方 九州地方
団体コード 43000-5
ISO 3166-2:JP JP-43
面積 7,405.84km2
※境界未定部分あり
総人口 1,811,256
(推計人口、2010年7月1日)
人口密度 245人/km2
隣接都道府県 (陸上)福岡県、大分県、宮崎県、鹿児島県
(海上)長崎県
県の木 クスノキ
県の花 リンドウ
県の鳥 ヒバリ
他のシンボル 県の魚:クルマエビ
県の歌:熊本県民歌「火の国旅情」
県庁所在地 〒862-8570
熊本県熊本市水前寺6丁目18番1号

地理

九州本島の中央部に位置し、福岡、大分、宮崎、鹿児島の各県と境を接する。海上で有明海を隔て長崎県とも接する。東部の阿蘇地方に世界最大級のカルデラを持つ阿蘇山や九州山地の山々が聳え、西部は熊本平野が有明海に、八代平野及び葦北地方のリアス式海岸が不知火海に面する。その間に宇土半島がつきだし天草諸島に続いている。 水道水水源が地下水のみでまかなわれている世界でも稀有な土地である。

気候

気候は県内全域が太平洋側気候に属し温暖だが、冬と夏で寒暑の差が激しい。

熊本地方の熊本市周辺では年平均気温が16℃以上あり、温暖である。有明海に面しているため瀬戸内海式気候に近い。夏場では気温が35℃を越す猛暑になることも少なくない。冬では最低気温が氷点下まで下がることもあるが、降雪や積雪は少ない。

阿蘇地方は山地型気候で、九州随一の寒冷地である。冬は九州山地や阿蘇山では毎年多量の積雪となるが、中国地方以東とは対照的に豪雪地帯には指定されていない。最低気温も氷点下まで下がることが多い。寒気が流れ込むと山頂では稀に-20℃程度の極寒となり、厳寒となる。 夏では熊本市周辺が35℃以上の猛暑でも、25℃以下の気温が続き冷涼な気候である。阿蘇山では気温が30℃に達することが全く無い。降水量も多く年間を通して2,000mm以上と多雨である。

天草・葦北地方は海洋性気候で寒暖の変動が小さい。年平均気温が17℃、真冬でも平均最低気温が7~8℃以上と暖かい、降水量は年間を通しては1,800mm程度である。

球磨地方では、人吉盆地を中心とした内陸的な気候と山地型の気候となっている。

歴史

[県名の由来]
豊臣秀吉により肥後に封ぜられた加藤清正が「熊本」という文字を使ったと謂われ、それ以前は「隈本(隅本とも)」と書いた。

「隈」の字が畏(おそれる、かしこまる)の字を含む(あるいは「隅」の字が「すみっこ、端、奥、目立たないところ」などの意味を持つ)ために、武将の居城の名に相応しくないということで、猛々しい「熊」の字を充てたといわれている。
熊本県に来ることを「来熊(らいゆう)」または「訪熊(ほうゆう)」、帰ることを「帰熊(きゆう)」と表現することがある。


[先史]
県内で人々が狩猟・採集活動を開始し、生活し始めたのは今から3万年以上前である。現在、県内で確認された最古の石器は、熊本市平山町の石の本遺跡出土の石器群である。アカホヤ火山灰や姶良・胆沢火山灰(AT)堆積の地層の確認や放射性炭素測定法から分かった。

[古代]
4世紀後半期に宇土半島の基部に摺鉢山(すりばちやま)古墳(宇土市、96m)、迫ノ上(さこのうえ)古墳(宇土市、56m)などの前方後円墳が営まれていた。 玉名郡和水町(旧菊水町)に5世紀末~6世紀初頭に造られた前方後円の江田船山古墳がある。同古墳から75文字を銀象嵌した大刀が出土している。

熊本県の領域はかつての肥後国のそれとほぼ重なるが、肥後国は古代においては、「火の国」または「肥の国」と呼ばれていた。これは八代郡ひ郷(肥伊郷)=現在の八代郡氷川流域に古代の多氏の流れを汲む「火君(ひのきみ)」と呼ばれる有力豪族がおり、地域の中心であったことに由来するとされている。肥の国はやがて、現在の佐賀県・長崎県の地域をも含むようになるが、7世紀終わりごろに肥前国と肥後国に分けられた。

肥後国は生産力が高い豊かな土地で、地理的にも重要と判断されたため、律令体制下では大国のひとつとされた。

[中世]
中世には、阿蘇神社の神威を利用して勢力を拡大した多氏後裔の阿蘇氏、遠江国から地頭として下り球磨郡に土着した相良氏、大宰府の府官であった菊池氏といった豪族が勢力を伸ばした。南北朝時代は、後醍醐天皇の皇子懐良親王を擁する菊池氏が九州の南朝の中心として活躍した。さらに、南朝方の名和長年の子孫である名和氏も領地がある八代に移った。戦国時代に至って、相良氏は名和氏を追い肥後国南部を支配するが、北部では菊池氏や阿蘇氏の家中はしばしば乱れ、豊後守護の大友氏の介入を招くなどしたため、有力な戦国大名が現れず、国人が割拠する状態が続いた。

[近世]
豊臣秀吉の九州征伐により佐々成政が肥後の国主を命じられるが、太閤検地に反対する国人たちによる一揆が起こった。秀吉は成政にその責任を負わせて切腹を命じる一方、一揆に参加した国人たちを徹底的に弾圧し、その勢力は一掃された。その後、秀吉は北半分を加藤清正、南半分を小西行長に分け与え、球磨郡においては相良氏の支配を認めた。

小西行長が関ヶ原の戦いで敗れ滅亡すると、加藤清正がその領地を併せ52万石の領主となった。清正は名城熊本城を築き、また河川・水路を改修して耕地を広げ生産力の向上に努めたため治水の名人として崇められた。しかし清正の死後、息子忠広の代に改易され、代わって細川氏が54万石の領主となった。(熊本藩)支藩として宇土藩、熊本新田藩がある。また、家老の松井家は八代城の城代として、3万石を与えられており、事実上の八代支藩の藩主であった。他に肥後国内には、相良氏が治める人吉藩があった。

天草は長崎に近く、また、キリシタン大名であった小西行長の領地になったこともあり、キリシタンの数が多かった。関ヶ原の合戦後、唐津藩12万石の領主である寺沢広高の領地となるが、寺沢はキリシタンを弾圧し、また過酷な徴税をおこなったことから、1637年(寛永14)島原の乱が起こると、住民の半分がこれに参加し、全滅した。乱後、天草は天領となり、初代代官の鈴木重成の尽力によって天草は次第に復興していった。

[近代]
1871年(明治4)、肥後国には熊本県と八代県が設置された、熊本県はその後白川県と改められ、1873年、白川県と八代県が合併して白川県となった。1877年(明治10)、再び熊本県に改名され、現在の熊本県が誕生した。

主に戦前までは熊本が九州の中心とみなされ、熊本鎮台・第五高等学校などが設置されたが、戦後の経済発展に伴い、その役割は次第に福岡県へと移っていった。

第五高等学校教師として夏目漱石・小泉八雲が熊本市に住んでいたことがあり、森鴎外も第12師団軍医部長をつとめていた時に、熊本市を訪れたことがある。熊本での体験が彼らの文学に大きな影響を与えている。

 

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